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高橋多佳子 ショパンの人生 [ピアノ]

高橋多佳子さんのアウトリーチはある意味で正統的。今回はオールショパンでポーランド留学から追求している彼女の十八番である。話す材料はたくさん持っている。逆にだからこそどのような組み立てそするかが重要な要素である。それが出来ているので、相手は子どもでも大人でも同じテーマで話し方や説明方法、用語を変えるだけで内容を変えなくてもいける、と言うところがあるように思う。それも簡単なわけではないけれどね。
今回は3、4年生ということで用語で少し苦労したところがあるが、意欲はストレートに伝わってきていた。こういうものをきちんと提供することはきわめて大事だ。私とかが教えられるのはどうしても小手先の技術になってしまうので(それも大事だけれど)それを超えたものを目指すのでなければ、何のためにやっているのかわからない。
本来クラシック音楽はそれ自体に大きな能力を持っているのだ。
20101130北九州花房小高橋2.jpg

2010年11月30日(火) 14:00-15:00
高橋多佳子
北九州市花房小学校 3,4年生 68名

入場
M1 エオリアンハープ
花房小学校の皆さんこんにちは(こんにちは)
すごい元気ですね.ありがとう。みんなに会うのを楽しみに来ました。1時間の短い時間だけれどピアノや音楽のすばらしさを感じて貰えれば嬉しい。よろしくお願いします(よろしくお願いします)
今の曲はショパンという人の曲。後ろにある。左から6番目。今日はショパンの人生を振り返りながら音楽とお話で進めたい。
今年はショパンの記念の年。1800年生まれ。何歳かな(200歳)そう、今年は生誕200年で記念落としになるので世界中でショパンのコンサートが行われている。
ショパンが生まれたのはポーランド。ここに地図があるけれど場所がわかる人?(数人。一人が地図のところに行って指す)すごーい。何でわかる?(地図がすき)
ここがポーランド。北海道と同じくらい寒い。冬はマイナス20度にもなる。
ショパンという名前は、お父さんがフランス人だったのでフランスの名前。彼の人生も良いときも悲しいときもあった.それを振り返ろう。
3歳でピアノをお姉さんに習い始めた。6歳の時に本格的に先生についた。おじいさんだけれどとても良い先生だった。7歳の時にはじめて作曲をした。11歳の時には大好きな先生に誕生日のプレゼントとして曲をプレゼントした。ポロネーズという。ポーランドの踊りを元にした曲。
M2 ポロネーズ(短縮)
かわいい曲だけれど、小学5年生くらいとは思えない曲ですね。中学生くらいになるといつも面白い事を言ってみんなを笑わせていたらしい。そういう人っているでしょう?。物まねが上手で、漫画を書くのがうまかった。落書きしたノートがプーランドでは展示されている。
18歳くらいになってワルシャワ音楽院に入学して本格的にピアノや作曲を勉強した。上手だったのでポーランドでも知らない人は居ないくらいになった。15歳の時には曲が出版されていた。
有り余る才能を外国で知ってもらい活躍したいと考えるようになった。その当時はポーランドは強い国に支配されていて、ロシアが半分、オーストリアが南の方、ドイツはプロイセンと言ったけれどこれが西の方を支配していた。何で、ポーランドという国は地図の上にはなくてみんなはつらい思いをしていた。それで国のみんなが支配に対して革命という戦争をしようと思っていた。20歳の時に外国に出ることにしてまずウイーンに行った.その途中で戦争が始まったというニュースが入ってきた。ショパンはすぐにも戻ろうとしたが、同行していた友人がショパンを必死に止めて「あなたは音楽でポーランドという国を世界中に知らせて欲しい」と説得した。友人は国に戻ったがショパンはウイーンに向かった。しかしウイーンはポーランド人に冷たかった。一種の人種差別でポーランド人がうまい演奏が出来るはずがない、と言われた。
寂しさのあ手複雑な曲。ノクターン。ショパンはいろいろな感情をピアノで表した人だった。いろいろな思いが入っている
M3 ノクターン第3番
彼のピアノには本当にいろいろな想いが入っていると弾くたびに感じる。ショパンはウイーンをあきらめてお父さんの国のパリに向かう。その途中で悲しい知らせを受け取る。それは革命が失敗しに終わったという知らせ。ショパンは狂ったように哀しみにうちひしがれ、怒りを感じた「ああ紙よ、あなたは何故ロシアに味方するのか、あなたはロシア人か」という走り書きが打ち震える手で書かれている。
そのときに書かれたともいわれる曲
M4 革命ポロネーズ
この曲にはすごい怒りのようなものを感じませんか?(かんじる)。
ショパンは心に傷を持って約1ヶ月かけてパリに行った。
その頃は何で移動していたかわかる?(馬車)相場者。メンデルスゾーンは30キロの汽車に乗ったときに「気の狂うくらいの早さ」と言っている。パリに着いたときは21歳になっていた。彼はフランスで才能を開花させるのだけれど、その前にピアノについてお話をしたい。
【ピアノの構造の説明】
  木の枠~中にハープのようなものが入っている<弾く>~鍵盤を弾く。88鍵。練習が必要~鍵盤を押すとハンマーが上がってたたく~弦はひとつの音に3本~3つのペダルの役割。代表者による「わっ!」。
さて、ショパンにもどろう。パリで演奏会を開いて大成功した。フランス人は進歩的でポーランドを応援していたこともあって大歓迎された。その上パリにはいろいろな芸術家がたくさん居たので刺激も得られた。お金が無くなったとき偶然会ったポーランドの貴族からの紹介で社交界に出入りするようになる。そこで弾くとイケメンでおしゃれでピアノがうまい彼は人気者になり、貴族の奥様たちがみんな習いたいと言うことになり経済tげきにも安定した。その頃作ったワルツの楽譜は大ヒットとなってパリでは誰知らぬ人のないようになった。その出世作のワルツを弾く
M5 ワルツ 第1番
23歳になっていた。26歳くらいの時にある人と恋人になった。それがジョルジュ・サンドという人。作家です。彼女の作品は日本でも買える人気作家だった人。人気者同士と言うことでパリ中で大騒ぎになり、それでパリを離れてマヨルカ島に行くことになった。当時ショパンは結核で暖かいところが良いということもあった。地中海の小さな島は寒いところで育ったショパンにとっては吃驚した。空の色、緑、家の白さとか新鮮だったので「天国のようだ」と書いた手紙が残っている。しかし、雨期になると寒さと湿気がおそってきた。結核には寒さと湿気がいけない。悪くなって死んでしまうかもという感じになった。その上島の人が結核を恐れて去るように言われたのでサンドは山の上の修道院に移った。そこで作ったのが24の前奏曲という曲で、その中で雨だれという曲がある。美しい曲だけれど恐ろしい感じもある。死に神が来る感じ。途中で鐘が鳴る。この音<弾く>が雨だれの音のように聞こえてくる
M6 雨だれ
マヨルカ島から帰ることになり、途中で良い医者に出会ってそのすすめでサンドの実家のあるノアーンという町に行く。パリより南で少し暖かい。そこではサンドの献身的な看病もあって体調もよくなり、その後の7年間のショパンの作品は良い曲がたくさんある。そして力強い曲が多い。37歳になると再び身体をこわしサンドともけんかをして別れて39歳でこの世を去る。
彼の遺言には、身体はパリに埋めてもらいたいが心臓はポーランドに埋めて欲しい、と書いてあった。3歳の時にピアノを教えてくれたお姉さんが死に間に合って心臓を金の壷に入れて持ち帰った。ワルシャワの教会の柱に埋め込まれているが、そこには「ショパンの魂はここに眠る」と書かれている。戻ることは出来なかったけれど、彼は友人に約束したように「音楽でポーランドと行く国があると言うことを世界の人に知らせて」くれている。
最後に、英雄ポロネーズを弾いて終わりにします
M6 英雄ポロネーズ

アンコール M 子犬のワルツ

終了

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